非喫煙・タバコ穏健派のわたし

タバコは吸いません。

好ましくないのであえて寄り付きませんが、個人の嗜好の範囲で楽しんでいる人をひとからげに嫌ったりはしません。喫煙スペースでは自由に吸ってもらえたらいいし、あえて分煙のお店に入って眉をひそめるのはあほらしいから禁煙のお店に行きます。


要はマナーを守ってさえいればいいのです。


でもそれでも判断に困ることがふたつありました。


ひとつめ、家族で外食に出たとき。

新鮮さを売りにしている回るお寿司屋さんで、激安店ほど混んでおらずネタがどれも美味しいところ。

お寿司屋さんではたいてい禁煙なのがタバコが苦手な層にはひっそりとうれしいポイントです。

ボックス席が並んでいてそのひとつに案内され、座った途端異臭。

あれ???誰かタバコ吸ってる????

正体は背後のボックス席にいたサラリーマンでした。会社の若い衆を連れてきました、という、貫禄ある上役らしき方。お酒を楽しみながら仕事の話をしているだけでタバコは吸っていらっしゃいませんでした。が。

もうね、その人体臭がタバコ。

くさくて泣きたくなるレベル。

進行形で吸ってないのに逃げたくなる、それがタバコの残り香。その人はきちんとマナーを守っているけど、おそらく会社帰りに立ち寄られたのでしょう、着ているもの全てが燻されていたようす。


すぐ席を立ちそうだったので我慢しました。

でも、臭害に近いと思うんだよなぁ……どう対応すればいいのか。


ふたつめ、隣家。

一軒家ですが、お隣さんが存在します。きゅうきゅうに近い訳では無いけど、ちょうどお隣のテラスとうちの水周りが隣合う間取り。

問題は、夜な夜なお隣さんのどなたかがホタル族をなさっていること。

もちろん、窓は開けません。

冬だし、寒いし。

夏も、よほどでない限り開けません。

自衛大事。

でも、でも。

煙はほんの隙間からでも香ってくる。

こびりつきはしないけど、水周りの仕事が億劫になる、弊害があります。


ホタル族さんは何時にタバコを吸うか決めていないようで、出くわさないよう気をつけていても一定の頻度でどうしても出くわしてしまう。

少しのストレス。

ホタル族をやめてくれというのは、なかなかむずかしいしなぁ……。



花粉症で子どもが欲しい人へ

調べればわかることを書きます。


妊娠中、花粉症対策としてアレグラなど抗アレルギー薬の処方は可能です。ですが、体感として、妊婦さんにはなるべく弱い薬を、飲まないで済むならそのほうが……というような姿勢をとるお医者さんのほうが多かった気がします。

飲むほうとしては、花粉症がきついからお薬ください!というところなのですが。

出来るなら物理的な花粉症対策をしておきましょう。妊娠期間はとても長いので、花粉症の人がねらって花粉の時期を外すのはむつかしいです。

そう。むつかしい。

できなくはないかもしれない。


服薬の影響をうけない妊娠超初期を花粉症終わりの時期にあわせる、みたいな感じになりますか。


でもこれはおすすめしません。

なぜかというと、授乳中である場合、子どもが生後半年をすぎるまで抗アレルギー薬は処方出来ないからです。

ミルク育児前提ならその限りではありませんが、花粉全開の時期に薬が飲めないのはけっこうつらいものなので……


とはいえ子どもは授かりもの。

お腹の中に来てくれたら、逆算して腹を括って花粉症対策しましょう。


ああ、喉がかゆい。

(薬を飲み忘れた)


マウンティング

最近見かけた言葉でん?と思ったのが

「それってマウンティングだよね」

というものです。

初めてみかけた言葉ではないけれど、改めて考えてみたらちょっと気に食わないなぁと思いました。


マウンティング。

マウントをとる。

格闘技などで相手に技をきめて、優位に立つこと。

転じて、相手より有利な立ち位置にあることを見せつけること、というような意味で使われていますよね。

「それってマウンティングだよね」

という発言には、

「あなたは蔑んでいるんですよね」

という意味合いが隠れている。

いやらしくもう少し突っ込むと、

「あなたは自分の優位をわかっていながら、劣った人を貶めているんだけど、楽しい?」

……というような言葉です。


無自覚に人を傷つけることはあるでしょう。

それが正しくないことだってもちろんあります。

でも、それはひどい揚げ足取りだし、泥の掛け合いです。もし故意にやっている相手がいたのだとしても、同じ土俵に立つなんてみっともないにもほどがあります。


わたしがまだ学生だったころ。

友達だと思っていた人に言われた言葉は長いこと忘れられません。

「あなたは、わたしより〇〇だから、わたしの気持ちなんてわからないんだよ」

〇〇の中身は、お好きにご想像ください。

それはわたしにはまったくどうしようもないことでした。

そのひとことは相互理解を拒絶するものだったと感じられました。それについて、素養があったかもしれないにせよ努力もそれなりにしたこと、悩んだこともあったこと、などなど、言いたいことはたくさんありましたが、飲み込みました。


他者のすぐれたところを羨むのは、モチベーションのきっかけにはなりえます。

マイナス方向に向かうようなことには、しないようにしたいものです。

おかあさんのあり方

少し前の話題になりますが、絵本作家の「のぶみ」さんが作詞した歌が話題になりましたよね。


http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/04/atashi-okaasan-dakara_a_23352738/


あの歌について思ったことを言語化しておきたいな、と思ったのでつらつら書きます。


まず、この歌のおかあさんのあり方は決して否定されるべきものではありません。

時代に即した母親像ではないことは確かです。主流という言い方をすると語弊がありますが、ざっと30年前頃はこんなお母さんが「できるお母さん」としてもてはやされていたのではないでしょうか。

もちろん30年前のお母さんの中に「子どもを産んでも仕事や趣味を頑張りたい」「わたしの人生の主役はわたし!」と考えて行動していた人もいたでしょうが、そういう人は世の中的にどう評価されていたのかしら。


おかあさんのあり方は多様化して、これが正しいものだ、正道だというものは現在はないと思います。それぞれどんな風に生きるか悩みながら子どもと向き合っている。

その中に、子育てとハウスキーピングに打ち込むおかあさんもいる。

そこは否定されるものではない。


ただ気持ちが悪いのは、あの歌詞が、やりたいことをやる責任を「自分ではないなにか」に転嫁しているように思えるところ。

子どものため、というのはうつくしく見えるけれど呪いでもある。


あと「おかあさん」が多様化してるところに限定された現状マイナーな「おかあさん」像を打ち立ててきたのは、なんというか、のぶみさんの「おかあさん」像がこうだったのかしら……

叱ることについて

子どもがふたりいます。

上がそろそろ4歳、下は0歳です。


上を育てていて、自然と「叱る」「怒る」「虐める」の差について考えることが増えました。叱らない育児なんてものがありますが、一般的に幼児と日々接していると当たり前に叱らなければいけない場面を展開してくれるので、迷う暇も与えられずに「こら!」としょっちゅう怒っている気がします。


「叱る」と「怒る」と「虐める」の違いはどこにあるのでしょう。

子どもはお笑いが大好きです。

キャッチーなお笑いはみんなが真似します。少し前は弄りがいのあるタレントをおとしめて笑いをとるようなものが多かった気がします。プロのやる「弄り」を形だけ真似て「虐め」にしてしまっていた人も、少なからずいたと思います。

いまは否定から入るようなお笑いはぐんと減りましたよね。わたしが学生のころにあったような、弄り全盛のお笑いは、たぶんもう少ししたら「こんなものが受けてた時代もあったんだね」という扱いになるのでしょう。


思い返してみると、かつて「叱られる」というのは大抵ひたすらに嫌なことでした。

何が良くなかったのか建設的に諭すような叱り方をする人より、機嫌をうんとわるくしてへそを曲げたようになり、感情的に気がすむまで責め立てるようなやり方をとる人の方が多かった。

もしかしたら育ってきた環境が悪かったところもあるかもしれませんが、ひとつの時代の側面でもあると思います。


たまに「叱られてきたように叱ってしまう」ことがあります。感情的に責めてしまうのです。すぐに気付いてフォローはしますが、ひやひやします。もちろん親とはいえ人間ですから、いつも正しく叱れるわけではないけれど、できたらなるべく公正に、不条理なく叱るように気を付けたいところです。

このブログについて

このブログは、わたしのなんでもない日々のうえで思ったことなどをだーっと書きまとめる場所です。

かならずしも日常の記録ではありません。

レシピをメモするかもしれません。

家族のことを書くかもしれません。

何も決めていないから、あっという間に更新をやめるかもしれません。

まあそれでも、書きたくなったから。